興亜観音(こうあかんのん)


静岡県熱海市の伊豆山に【興亜観音】という観音様が祀られています。



この観音様は、戦場の土を使って愛知県で作られたという非常に珍しいものです。



昭和12年、中国大陸で支那事変が起こり、大勢の日本兵と中国兵が亡くなりました。



その菩提を弔うために、松井石根(いわね)陸軍大将がこの地に【興亜観音】として建立しました。



歴史上、この松井石根大将はA級戦犯となってしまいましたが、

私は松井石根大将という人物が戦犯と言われるような人物には、とても見えませんでした。



皆さんも、是非【興亜観音】へ行って、その【人となり】を自分の目で確かめてみてください。


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歴史の奔流に飲み込まれた人々の救済のために

建立された観音様・・・


優しげなお姿ですが、どこか寂しそうにも見えます。

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この四角い柱には、各面に世界平和を祈る文言が

各国の言葉で書いてあります。



支那事変に巻き込まれた方の霊でしょうか。



美しいオーブが、柱に寄り添うように映っています。



やはり、平和な世が来る事を

祈られているのかも知れません・・・。

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今、不安定ながらも平和を享受している私たちは、

悲しい戦争の歴史と、沢山の人々の犠牲があった事を

忘れてはなりません。



興亜観音では、毎年5月18日に例祭を挙行しているそうです。




【関連記事】※これは、6月20日の産経新聞からの抜粋記事です。



東京裁判は、裁判の管轄権、裁判手続きで瑕疵(かし)だらけの裁判でしたが、

裁判の内容について言えばこれまた数多くある欠陥の中で最大のものは、

まさに「平和に対する罪」の訴因第一の「共同謀議」であります。



つまり、被告全員は、昭和2(1927)年の田中義一内閣以来、

共同謀議によって極東侵略を計画し、次々に侵略戦争を行ったという主張です。



これについては、どの被告も冗談じゃない、皆ああだこうだ言いながら、

状況に押し流されてこうなったので、意図的な計画があって着々と実行したなどととうてい言えない、

と言って、この主張に終始、苦笑し、冷笑し、憫笑(びんしょう)しました。



東京裁判がいまだに、誰一人からも尊敬されていない主な理由はここにあります。




検察側もこれに気づいて、


「具体的な計画や謀議はなくても、漠然と国家利益のための武力行使について被告の間に

同じような考え方が存在していた」


といっていますが高柳賢三弁護人に言わせれば、そんなことを言えば、

イギリス、フランス、さらにはアメリカ、ロシアの国家としての発展を担った

全ての政治家、将軍は共同謀議の罪に問われることになります。




史上最悪の裁判

オランダのレーリンク判事はウィロビーとテニス仲間でしたが、

裁判が終って別れを告げにいった時のウィロビーの言葉を伝えています。



「この裁判は史上最悪の偽善です」



「こうゆう種類の裁判が開かれるのなら、私は自分の息子に軍に入隊することを禁じるでしょう。

もし、日本が置かれたような状況ならば、アメリカも日本が戦ったように戦うでしょう」



「ハル・ノートならばモナコといえどもほこを取った」



とパール判事も引用しています。



最後に刑の執行を命じるのは、マッカーサーの責任でした。



マッカーサーの回想録は語っています。



「私は長い公的生活で、数多くの辛く惨めな任務を果たしてきたが、

この判決を審査するほど不愉快極まるものはなかった。

私はこの問題を評価するに必要な卓抜した英知を持っていない。

この問題は人類が歴史以前から解決に苦しんできたものだ。完全な解決は永久にないであろう」



このような裁判で処刑された人々の無念さは想像にあまりあります。


彼らは従容として死につきました。


しかし、それは判決に納得したからではなく、

日本の国家と国民に対する敗戦の責任を感じたからです。



獄中で病死した東郷茂徳は歌っています。



我はここに慎み居れり但しこれ御国に対するものとこそ知れ



東条英機の獄中での句と言われるものがあります。



身を千々に砕きさくとも償えじ栄ゆる御世を堕せし此の身は



覚悟の上とはいえ、その扱いは最後まで意図的に屈辱的でした。



死に際しては何の尊厳も認められず、極衣のまま絞首刑に処せられ、

遺骨は家族に渡すことも拒否されました。



わずかに、米軍が骨灰を捨てたゴミ捨て場を察知した弁護人達が、

クリスマスで米兵の警戒がゆるんだ夜、骨灰を掬い(すくい)上げ、

これを愛知県幡豆町三ケ根山頂に葬ったのが「殉国七士墓」です。



誰もが戦争犠牲者

その後、講和条約発効と同時に、服役中の同胞釈放運動が起こり、

講和条約の規定を守って関係各国と交渉して、昭和三十三年までに全員が釈放されました。



これと並行して戦争裁判の刑死者など遺族に対する恩給、年金支給の運動が起こり、

当時の左右社会党を含む全会一致で可決されました。



通常懲役三年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されますが、

戦争裁判の刑死者などは日本国内法の犯罪者でなく、戦争犠牲者であると考える点で、

当時の国民には何の迷いもなかったわけです。



そして、その恩給、年金の対象リストを参考にして、

政府は靖国神社への合祀(ごうし)予定者を選考し、

これに従って戦争裁判受刑者は逐次(ちくじ)合祀され、

ここに戦争裁判犠牲者の御霊(みたま)は終(つい)の安住の地を得たわけです。



ちなみに昭和天皇がA級戦犯合祀に反対されたという説があります。



前後関係はわかりませんが、

昭和天皇のご心情から考えれば、何かの誤聞でしょう。



実は、昭和二十年九月十一日、米軍憲兵が東条を逮捕した時、

日本側はこれに抗議して、以降戦犯の逮捕は占領軍の命令に従って日本側が行うこととしました。



そして、閣議では戦犯の裁判も日本の手で行うことを

GHQ(連合国軍総司令部)に要求することを決定しました。



ところが、この決定に昭和天皇から異議がでました。



「昨日までひたすら忠誠を尽くした臣僚を、朕(ちん)の名において処刑することは、

朕においてはしのびない」




これに対して重光葵が、占領軍がこれに同意する可能性はないが、

日本の主権を擁護するため要求せざるを得ないとご説明して、やっと


「わかった」


と仰せられたといいます。




昭和天皇にとっては、

東条を含むA級戦犯は全て忠良な臣僚です。



その靖国合祀に反対されることは、

昭和天皇のご心情からいって考えられないことです。



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